そまらば日誌

『身近に感じる伝統工芸』を目指して、絞り染めでものづくり!

かつて私は大人になれば特別何かしなくてもそれなりの才能が花開いていると夢見ていた。

 

と、本屋に並ぶ本を見ていて思ったのです。

 

本というのは読めばそれなりに何かを成し遂げた気分にさせてくれる。

でも作者がビビッときて書いたそれは読み手に何かを伝えてくれるかもしれないが、結局読んでるだけだとどこまでいっても読み手は第三者である。本の中身に憧れて、己もそれと同じ体験がしたいと行動したときに意味があるんじゃね?一次情報が一番やで。

そして自分の身に起こったことをどう感じるかは教科書どおりとも限らないもんね。

 

なんでこんなことを書いているのかわからないままこんばんは。みとです。

 

写真の整理をしたことがない私は近ごろ結婚式のアルバムを作るべく奮闘しています。

私は写真を撮って素晴らしい1枚を世に爆誕させたいという欲望はあるけど、ぶっちゃけ撮れたものをどうこうしたいっていうのはあんまない。あれだけ執念を燃やして撮った写真も今になっては見返すことすらないわけです。魚を釣ってきた亭主が料理はしたがらない、みたいな?でも案外、みんなそんなもんなんじゃないの?

 

それはある意味平和ってことなのかもしれない。

現在にはなくて過去にはあるものを見たいと思うとき、写真は記録として役に立つもんね。世の中にあるありとあらゆる記録とその手段がなければ、脳に残っているものがすべてである。そして人間は時間と共に大体は忘れていく。

きっと今より未来・現在・過去の過去の割合は低くなる。それもいいのかもよ?などと思う。

どこまでいっても過去は過去なのである。

 

だけどツイッターなんかで見られる動物のベストショットや珍ショットはちょっと見たい。

その光景を見た当事者にはなれなくても、写真をとおしてかわいいとかほっこりしたとか、己の感情を呼び起こしたいのかもしれない。

 

そんなことを思いつつ、後が支えているのでアルバムもそろそろ完成させたい。今週中にはと、〆切をもうけてみたりして自分の尻を叩いている。

大人になれば自分の尻は自分で叩かなければいけなくなったと夢見ていたころの私に教えてあげたい。